ネミー通信

いつもねむいかおなかへってるかのどちらか

ふるさととか故郷とかのこと

「地方から出てきて東京で暮らしてるひと、東京って楽しいですか?」
 社会学者の岸政彦先生がツイッターでそう呟いた。

東京以外を地方とするなら、ざっくり言うと大阪から東京に出たわたしも対象になるのかなあとぼんやり思って見ていた。
ツイートには色んなひとのリプライがついて、
当たり前だけど、それぞれの人にそれぞれの生活があることが伝わってきて興味深かった。
わたしもリプライを送ろうかなと思いつつ、うまくまとめられなかったのと、
考えごとが脱線していったので何となく送れずにいた。
 
わたしは大阪で東京出身の父と大阪出身の母の間に生まれ、
物心のつかないうちに埼玉に引越し、県内で引越し、
十歳の時にまた大阪に引越し、奈良の高校に通い、大阪市内で引越し、
大学進学で東京に出、患って大阪に戻り、東京にまた戻って大学を卒業し、
埼玉に移り、毎日都内に通勤しながら暮らしている。
持ち家は今も大阪にあって、でも中身は空っぽで両親はいま埼玉に住んでいる。
普段話しているのは標準語。
関西弁らしきものは話せるけれど「本場」の人からすると時々おかしなところがあるらしい。

「東京って楽しいですか」と問われると、東京は楽しい、気がする。
気になるものにはだいたい何でもすぐにアクセスできる。
イベントも食べ物も、お店も美術館も。
でも比較できるほど大阪ではきちんと「暮らし」を暮らしていなかった。
今思うと大阪では家と学校の往復で勉強しかしていなかったし、
大人になった今の暮らしやすさと比較するのもちょっと違うような気がした。
岸先生のツイートについたリプライのように、地方より人間関係が楽だとか、個性的でも奇異の目で見られないとかいった実感はない。
あと、地方と比べた東京、というところで、少し脱線した形で考えが巡っていった。

故郷ってなんだろうか。
一所に長い間いなかったせいなのか何なのかわからないけれど、
《故郷》とか《ふるさと》とかいう感覚で言える土地はわたしの中にない。

だから、出生地の意味で「大阪出身です」とは言うものの、いつもどこか違和感がある。
故郷と言うには申し訳ないような気すらしてしまう。
「えー関西出身なのに関西弁が全然出ないんですね!」とよく返されて(ちなみにその反応を嫌だと思ったことはない)、
その度に「言葉が身体に染み込む微妙な時期に引越しを…」と言ったり言わなかったり、
周りに関西弁の友達がいると自分も関西弁らしきものが出てくること(事実)を話したりする。
大学に入りたての頃はやたらと関西弁らしきもので押し通していたのも思い出し、
その頃はキャラ付けを意識していたのかなあなんて思う。

親の仕事の都合で小さな頃に引越しが続くひとなんてごまんといるだろうし、
何なら海外と日本を行ったり来たりするひとだって沢山いるし、
このくらいで故郷に対する感覚ってゆらぐものなんだろうか、でも「ここが故郷!」と思える場所があるひとばかりじゃないと思うし。
いや、でもどうなんだろう、そうでもないんだろうか。
実家があったらそこがとりあえず故郷なのだろうか。わからない。
ゆるぎない、帰る場所だと思えるところが故郷なのかなとは勝手に思っている。

わが夏帽どこまで転べども故郷  寺山修司

この名句もすごく好きだけれど、共感したことはない。
たぶん少年時代の故郷/田舎という狭い世界に対する鬱屈した気持ちとかが含まれているんだろう。
想像するしかない。
お世話になっている堀本裕樹先生の熊野に対する思いやそれが表れている作品にも、すごく憧れがある。
今後決して自分に得られない思いや血脈の強さ、絶対に到達できない世界だから。

ただ、石垣りんさんの本を読んでいた時に、
ことばが、日本語がふるさとなんだというようなことが書いてあって、すごくすとんと納得したのを覚えている。
石垣りんさんの言葉だったよなあと思って本をめくってみたけれど、該当箇所が見当たらないのですぐに引用できない…多分間違ってはいないはず)

つまり、わたしのふるさとは日本語です。
帰るところは言葉だ。わたしもそう思います。

「地方から出てきて東京で暮らしてるひと、東京って楽しいですか?」

不安に思うこと、辛いことも多いけれど、楽しいことも多い。というのが一応のわたしの答え。
でもこれは東京についてじゃなくて、今の暮らしについてだ。
東京も大阪も埼玉も、恐らくこれからも帰る場所だとは思えないけれど、嫌いじゃない。
どこにいても、言葉と一緒に暮らしていく。